昭和40年04月19日 朝の御理解
今ぐらい椛目全体にとって、大きなおかげを頂く、ことを神様に迫られておる時は又とないと。大きなおかげを頂かせて下さい、おかげを頂かせて下さいという願うのではなくてですたい、神様の方がです、大きなおかげを受けてくれ、大きなおかげを受けてくれよとこう、私共に迫っておられる様な、私は時だと思うですね。皆さんその事をお分かりになるでしょう。いわゆる神様に大きなおかげを頂いてくれよという、こう迫られておる時なんです。こういうチャンスっていうものは何時もあるもんじゃありません。
そこでです、そこで今ほど私を始め、椛目全体の総代幹部と、勿論先生方は言うにおよばず。一同の者がです大きな信心をさせて頂かなければならない時は、又となかろうと私は思う。そうでしょうが。ね、神様が私共全体の上にです大きなおかげを、ね、受けさせようと。神様の方が一生懸命になっておられる事を様々な事情の中から、それを察知する、感ずる事が出来る。ね、その働きを私共の小さい感情やら小さい心で、それを見たり受けたりしたんでは、折角の大きなおかげがこうも小そうなってしまう。
いやこまくする所かなくなってしまう。月並な言い方ですけれどもです。やはり大きなおかげを頂くためには、私共がもう限りない大きな豊かな心を頂くより他にないと言うこと。そこで私共はですね、どの様な事柄問題でもそれを寛大な大きな豊かな心を持って受けさせて頂くと。小さい事が気になる人の足元が見える。お互いに責め合う。こりゃもう小さい心の証拠そういう心が起こった時には、はぁこれはまぁだ椛目全体の上に自分のような者がおっては、本当なおかげにならん時だと思うて間違いないです。
例えば、総代幹部の中でもそういう、か、小さい心を持っておる人があるとするなら、どんなに大きなおかげを願ってもです、ね、大きなおかげを願うならば大きな心にならなければならない。けどもただ今の場合は、大きなおかげを願うのじゃぁない、大きなおかげを頂いてくれよと、神様が私共に迫っておられる。それは私共にどうでもこうでも、大きな、大坪大きな豊な先生方。
豊な大きな心の総代さん方、幹部の人達。ですからそれは、そのまま椛目だけのことではない。お互いの家庭においてもそう。隣り近所の、例えば付き合いなら付き合いといったような事においても然りね、今ほど私は、私共が寛大に、豊かな大きな心にならせて頂かなきゃならん、頂かにゃならんという事を願わなきゃいけん。にも関わらず、私の心の中に人の足元が見えて仕様がない。ね、
自分だけが一生懸命で、人は一生懸命になっとらんごと見える。ついそんな事でよいかとこう注意をしたい、責めもしたいような心が起こってきた時にはです、ね、今大きなおかげの頂けれるそれを自分は小そうしておる時であり、おかげを言わば向こうに押し返しておる様な時であると悟らせてもらって、どうでもその小さいね貧しい心を愈々豊かな、美しい大きな豊な心にならせて頂く事に一生懸命にならなければいけない。
お互いがです、いよいよ美しゅう、豊に大きくならせて頂きましょうやと、と励まし合い、共励し合い。ね、して行かなければならない時期はもう椛目的に、今ほどそれを神様が設問しておられる時はないと。今朝私御神前に出らせて頂きましたら、もうそれこそ見事な、いわゆるお広前が、この建立されておる、それに周囲にですもう沢山の足場が組み上げられておる所を頂いた。
こりゃあのう、建築のある前に、例えば鉄筋コンクリーのお家なんかが出来る時にはもう沢山な足場が出来るでしょうが。その私は足場が出来ておるその足場の、言わば一つの、あれは何ですかね、木の丸太がいくらでもあれをこう、こうを、足場が作ってあるわけなんですね。その一本が緩んでも、出来ない時だという事です。そうして、私共の心の中にいよいよ豊に大きくならせて頂く稽古をさせて頂いてです。ね、
椛目的、椛目にもそうしたおかげを頂かせてもらう、言わば、またとないだろう、未曾有の大みかげをです、ね、昨日の朝の御理解ではないけれども、神定めのままに受ける。こなさせて頂くためには、私を始め先生方を始めです、総代幹部は言うに及ばずです、いよいよその豊な大きな美しい心を持って、それを受けて行く成就して行くおかげを頂かなければならないと言うこと。
それはそのまま、んなら皆さんの心の上の、その事がです、皆さんの心の上にも、皆さんが願うておられる大きなおかげのです、受け物にもまたなると言うことなんです。これ皆さんなら小さく個人の場合を言うてもよいです、大きなおかげを頂きたいと願わん者はありますまい。ところが一番のこの、心を見たときです、もうこんくらいな事にこげん気になるもんじゃいけん、お、お、今自分が願うとる大きなおかげはもう成就しない時だとまず悟って、間違いない。
こんくらいのこつが、こげんイライラするもんじゃから、こんくらいのこつが、こげん腹が立つもんじゃからと。だからそういう例えば、心がです、どこから出ておるかという詮索させて頂いて、こう言う自分の浅はかな、汚い心からそれが出ておるという事が分かった時にです、汚い心に取り組ませてもらう、浅い心に、取り組ませて頂くということになるわけでしょう。
特に、私共がここに焦点を置かなければならないことは、ね、自然の中に起きて来る問題、いよいよ成り行きと本気で対決さえてもらい、その問題をです、豊かな大きな美しい心で受けて行けれる、おかげを受けなければならないと言うこと。たったこのくらいな事でこげん心配なる。考えて見るとこんな事がです、こんな事が腹が立つ。自分にだけは寛大で、他の者には厳しいと、これではおかげは受けられん。自分以外の者には寛大で、問題を自分自身に厳しくならなければダメと。
そういうような場合です、言わにゃおられん、思わにゃおられん。というような場合です、心配せにゃおられんというような場合です、あれがもうちっとこうしてくれるなら、自分も楽になるのに、というようなのではなくてです。自分の周囲の一切には、寛大にならなければならない。そしていよいよ自分自身には厳しくです。本気で修行に取り組ませて頂くところのおかげを頂かせて頂くところからです、心が豊かになる。
大きゅうなれれる。その大きな豊かな心の上にです、豊かな大きなおかげは約束されるのであると。そこのところをです、今日私は、今ほど椛目にとってです、神様が私共全体に迫るようにしてです、どうぞおかげを頂かせて下さいというのではなくて、おかげを受けてくれよと、迫っておられる時はないと言うこと。それは、一切の椛目的に起きて来る問題を考えてご覧になれば一番よう分かるです。
そうしなければ出来ない様な所に追い込まれておるという事実から言うてもそれが感じられるでしょうが。こりゃ神様がにゃ大きなおかげを受けてくれよと、私共に迫っておられるのです。そこで私共はこれを受け止めさせて頂くために、愈々寛大に豊に美しゅうならせて頂く。ところが人間的な焦りやら、ね、人間的な小さい言わば欲望がです自分の見栄やら名誉心やらです、功名心と言った様なものがです。
ついおかげを拒めたり、せばめたり、言わば頂けないような事にまでしてしまうような事があってはならん、ということにです、本気で焦点を置かせて頂かなきゃならない。お互い大きなおかげを中心にしてです、その足場の一本一本の足場である自覚に立たせて頂いて、どれが緩んでも危ないどれが緩んでも成就しない。そこん所を私はです自分の心の中に愈々豊かな大きな寛大な心を頂かせて頂く事に焦点を置く事を持って。
その足場が組み上げられていくのであるという、自覚に立って頂きたいと、これは皆さんだけの事じゃ勿論私自身の事に私を始め、皆さん一同と言う事なのであります。そして思うのです。ね、銘々の上におかげを頂かせてもらう時。ね、銘々の家庭の上におかげを頂かせて頂くに置いてもです、成程この生き方で行かなければ大きなおかげは受けられないということを体験させてもらう。ね、そこん所をお互いが話し合い、相談し合い、場合に励まし合い、共励し合うていかなければならんと思うのでございます。おかげ頂きました。